透過素材の火傷痕/迷子札の帰趨

元気だけどどうしてか寂しくて、楽しくて毎日充実しているけれどときどき心に拳をそのまま突き刺したくらいの大きさの穴が開いている。だからといって何かを失うわけでもなければ、泪を流すわけでもない。ただ、気がつくと心がスースーする。スカートを履いたことがない人が初めて履いたとき。メンソレータムを鼻に塗ったとき。何も変わらない音でスースーしている。

 

煌煌と照明のついた部屋で当然のように倒れていて、4時よりも前に目が覚めたけれど

動く気にもなれなければ寝る気にもなれなくて、渋々黒く小さい四角を通じてインターネットを覗き見る。この黒い塊は手に収まるサイズ感で優れているなあ、みんなも買えばいいのに。大きな空間につながっている小さめの穴がたまたま手元にある。この穴から中に入ることはできない。私が大きすぎる。

 

怒っているのでも辟易しているのでもないはずなのに、どこか諦めたような気持ちですべてを見てしまう時間だ。感情的になっていることはないので怒っているわけではない。ルッキズムなんて難しいことは一度も申したことはないのです。自分の見た目が嫌いな訳でもコンプレックスを抱えているわけでもない。ただ、色や形に固執する世の中に疲れが溜まっているようだ。音やにおい、どう気持ちが動くのか、動かないのか、そういう話を僕としませんか。意味を見出して、それに心を揺るがされて、意味のないことを楽しむ、それなら白い箱の中でも深海や宇宙に行けるのであって、行けていないというおかしさ。おもしろさ。

 

今の私にはとても大切にしたい人が居て、しつこいくらいには大事にしたいですとか好きですとか共有している時間が楽しいですとか伝えている。しつこいだろうという自覚はあるのだが、自分がしつこい人間になってしまってもいいと思えるくらいには大切な人なので仕方ない。そんなことはいちいち言葉にするのも野暮なのかもしれないけれど、野暮でもいい。野暮じゃなくて大切にできないくらいなら野暮でも大切にしたい。

 

以前、大事にしたかった人がひとりいた。あのときはだいたいの神経や感情が死んでいたので、当時思っていたことは当てにならない。そもそも大して時間が経過していないくらい最近のことなのに記憶が曖昧だし。事実は残っているので、思い出すのは事実の部分だけと心に決めている。結論から言うとその人はよくない人だった。悪い人。尊敬のできない人。でも気が合う人だった。面白さの温度感がおなじで、実のある会話こそなかったけれどずっと連絡を取り合っていた。話している時間が痛みのない時間、オアシス、避難所。

趣味が合う人だったと書こうとしたが、今思うと私が合わせていた部分も多少ある。それくらい必死だったのは、好きだったからかとおもったけれど、心を壊してしまったことを打ち明けて頼れる人がいなかったからというのが正しい答え。藁にも縋る思いの藁。

私が悪かったのは、それを見えないように感じないようにして好きだと思うスイッチを入れていたことだ。全く好きではなかった訳ではないのかもしれないけれど、どう考えても藁に油をとぷとぷかけて、ちっぽけな火種を轟々と燃えさせた。さらに悪いことに相手の火種にも油を注いだ。すると向こうは調子に乗って火炎放射器とかを余裕で使うようになった。とっくに火傷して一生残る痕もできていたのに気付かないまま半年以上の時間を過ごした。

途中で救出に来た隣人や消防隊の声も聞こえていなかったのがきちんとした病気だ。何度もロープを投げ入れてもらったし、消火活動もしてもらった。けれど私は火事だと思っていないものだから助けを受け入れられなかった。もしかしたら火事だとは薄々気付いていたのかもしれないが、それでも燃えたままでいいやと思っていた。暖かくて楽しいとか思うようにしていたし。

そうして自らを騙しつづけた所為でどんどんと心の破壊も加速した。泣いていない日が一日もなかった。あの水分はどこから湧き出ていたのだろう。反対に今はどこに貯められているのだろう。目が毎朝パンッパンでかなり不細工だった。朝に起きられなかったから昼間に起きていたし。止まり方がわからない日もよくあった。途中から泣いていることが平常なような気がしていた。傷口を自分でえぐってみたりもした。あのときにMOROHAを聴いていたのは実質的な自傷行為。マゾもいい加減にしてくれといった具合。

最終的には消防士さんたちが法の力で救出してくれたので、どうにか焼死を避けられた。しばらくはその人間が自分の人生からいなくなったことが恐怖に感じられたけれど忘れる才能は遺憾なく発揮された。それどころか合間合間の記憶もかなり薄れてしまっていて、何がどうなっていたのかかなり不鮮明。思い出す必要もないけれど。

その人は、とにかく暇な人だった。私もとにかく暇だった。だから生活の大半をその人と浪費した。二人でよく出かけた。しばらくの街は、その人の思い出の匂いが残っていてつらかった。けれど、しばらく上書きの日々を過ごしたらすっかり匂いもしなくなった。どこが好きだったかとかはわからないから多分好きではなかったのだと思う。

その人との靄がかかった記憶は完全に忘れきることもできる。つらい記憶がセットだったから全部削除してもいいのだけれど、綺麗な夕暮れだったり、不思議な色の海だったり、夜の街の景色だったり、あのときにしか見られなかった情景は消さなくてもいいかななんて思っている。だから背景だけは保存しておいている。人物の部分はだいぶ透過されている。

 

あのときとは何もかもが変わった。心が元気になり日々が十分なくらいには充実して、お金のことで苦しむこともなく、ある程度の余裕をもって生活ができている。だから同じような過ちは繰り返さないし、何かに依存するようなこともない。かなり健全な状態になっていると思う。

だけれど、この大した年数も経っていない人生で、大切にしたかった人を一人消失させていることは紛れもない現実である。だから、今近くにいる人も、思いもよらない方向からいなくなってしまうのではないかと少し不安に思うことがたまに。それを避けるため、そして自らを律するためにも思っていることを全て声に出すようにしている。

「大切にしたいです」と声に出すからにはつまらない失敗はしない。そうでもしないと失敗をしてしまうのかと聞かれたらすぐに何かを答えられる自信がない。とにかく声に出して意識をより強固にしている。相手を喜ばせたいとかそういう類いの優しさではないことに自分がちいさいことが表れているが、ここから大きくなっていけばいいだけの話だし。

 

面白い人が好きだ。一緒にいてたのしいのはもちろんのこと、共有していない時間にもそのおもしろさが流れ込んでくることがある。これってすごいことだなぁと。アイドルになって推される存在になるとか、頭に残るメロディーを作るとか、印象的な映像で映画をつくるとか。そうやって生活の一部になっていくという美しさを見せ方の工夫なしで確立できてしまう。なんて気持ちの良い。思い返すと日々をそういう面白い人に形成してもらっていて、もし私もその存在になれていたら幸せだ。これを相互にできているならそれ以上の幸せはない。

何を言っているのだろう。気持ちの悪い文字群が結局出てきただけだった。気持ち悪い。

すべてがとんとん拍子に続いていくわけではないというのはわかっている。だからこそ今の幸せを噛みしめることと、これを続けさせていこうと意識することを大事にしたい。ずっと一緒にいてほしいは流石に恥ずかしくて面と向かって言えないけど、思っていることに変わりはない。この期に及んで恥ずかしいってなんなんだ。好きな人に好きでいてもらえる自分でいつまでもいたいね。一回寝ようかなあ。書かなくていいことを書いてすっきりしているいのちだったな。迷子札を書いても良かった。