創意工夫、常に空中

湿度も気温も高くやっていられないと思ったが、鏡を見たらそこそこ可愛かったので大丈夫だった。化粧をし、可愛いと思う服を着ているときなら自分は可愛いと思える。自分が可愛いときは大抵のことはふーんで済むし、気力の基本値が上がっている気がするのでよい。誰のためでもなく、自らを鼓舞する意味で服を買い、化粧をし、どうにか繕う。これは何より健全だと思うがこれもどうせ嘘か。他人からどう見えるかを考えているなかで、他人の代表者を自分にしているだけなのかもしれない。嘘をつくのはいい加減にしてほしい。

鏡を見ようが動画で撮られた姿を見ようが、話した録音を聴こうが、自分が受け取っている自分はどこにもいないのだろう。だからどうにか他人の瞳に映る像を貰っては重ねて、姿形位置を探る。誤差はあれど他人からの意見はどれも否定できない、少しずつ少しずつ歪な生き物ができていく。仕事できるし可愛いし悪魔だし怪物だし病気。多分誰も嘘をついていない。嘘をついているとしたら私だろう。嘘は好きではない。私のことは好きだけれど、どういうことなのだろう。

 

基本的には毎日楽しい。つらいこともあまりないと思う。傷ついてもいない。嫌だったこともない。昨朝の満員電車は嫌だったか。ギチギチなのに救護活動で電車が動かなくなってしまい、ようやく動いて次の駅に着くと許容量を上回る人が乗ってくる。身長があまり高くないので、満員電車に乗ると呼吸がしづらくなる。苦しい。それに鼻が敏感なので苦手な洗剤の匂いや人の匂いがするとゲボ予備軍になる。心は全く繊細ではないのだが、感覚が過敏な節がある。分類するとHSPとかいうやつなのだと思う。何故か心的な繊細さばかりが取り沙汰されて市民権を得ているが、本来は音や匂いや光の過敏さもすべてひっくるめたもののはず。自称HSPの人でくせぇくせぇと嘆いている人を見たことがない。自分は自称でもなんでもないので、ただ光に弱く音に敏感でくせぇくせぇと思っている人間。人が気にならないレベルのものでも気になってしまう。でも忘れる能力の高さでその繊細さを帳消しにしている。最大の攻撃はわすれることかな。悲しいね。

死にたくもないし、やりたいこともあるので全然元気だった。たまに訪れる淋しさや悲しみは、小さな雨雲のようなもので、しばらく待てばどこかへ消える。折りたたみ傘くらいは持っておきたい。

 

昨晩は珍しく早く寝てみることにしたので、今日はだいぶ寝た日の朝だったはずだが、だいぶ寝ていない朝と同じくらいの眠さとパフォーマンスの低さだった。いつも睡眠には騙されている。たくさん寝たら良いことあるよ、みたいに手招きしているくせに、いざ行ってみるとただの会議室くらい無機質。何もないも同然。むしろ外の方がいいわとすら思う。いっぱい寝てもいいことはあまりない。たくさん寝なくてもやっていける身体に仕上げたい、それでピューロランドくらいの楽しさを作って会議室の奴らを見返す。今私は何に怒っている?

 

久しぶりに先生にご飯に連れて行ってもらった。その間他愛もない話しをするわけで、仕事のことが主だがもっと普遍的なことを話す場面もある。「共感」について考えた。共感ってかなり重要だ。人とわかり合う上で必要で、共感力は高いほうがいい。だからといって何でもかんでも頷いてばかりいるべきでもないのだが。お笑いだって共感がベースだと思う。共感とは何より簡単で何より難しい。共感なんて本当はないのではないかと思うときもある。人の気持ちはわからない。わかるものというと自分の気持ち、自分の考えだけだ。それ以外は全てわからないこと。わからないことしかない。私は人の気持ちがわからないのだと言い聞かせながら生きていますと先生に言う。

共感してくれる人が思いもよらぬところに居るということはここ一年くらいで気付いたことで、その人が必ずしも自分と同じ立場や境遇とも限らない。そんな話をしたら「共感の国を作ったらおもしろいですね」と言われた。そうですね、と返したが、自分に共感してくれるような人が大量にいるのは少し嫌かもしれないと思った。

 

週に4,5日はスーパー、2,3日はテレアポ、そこに元の仕事と原稿の仕事をしていて、AI系技術習得という変なアルバイトも日常に加わっている。今日から毎日2時間CGアニメーション生成の勉強をしなければならなくて、時間というものの捻出の方法を考えねばと思いながらこんな文章をタラタラと書いている。今は考えている時間なのだから排除できないぞと座り込みをする私。ブルドーザーで突っ込んでくる私。それを見ている私。止めないのは私なのか車が止まらないのか、うま玉トマ苫小牧。何一つ動いていないか。

やることが沢山あるのは別につらくない。むしろ多い方が動きやすくなるし、元気もいっぱいになる。それぞれ心も体も頭も使っている場所が違うので負担も大きくない。それどころか互いが良いように作用しているような気がする瞬間もある。一生このままいくつもりはさらさらないけれど、これをこなすことに慣れるようにはなりたい。

集中してパソコンとにらめっこしながら3D動画の作り方を学び、数時間後には延々と他人に営業をし、家に帰って文章をしたためる、目覚めて重い荷物を運んで仕分けて商品の品出しをする。小さい社会との接点をあちこちに作っている。少しずつ面白いことがあるから、少しずつ私の形も変わっていっているはず。石みたいな。角がとれているならいいけれど、全てを殺す意志は健在だから丸くなるということでもない。新しい形になりたい。

 

スーパーで働いているときは身体さえ動かしていれば作業ができるので頭ががら空き。だからいつも考え事ができる、とても貴重な時間。無駄な誘惑も情報もない理想の環境だ。それを先生に言ったら「考え事って、何をそんなに考えることがあるんですか」と言われた。考え事しかしていないのに、考え事について考えたことがなかったから驚いてしまった。何を考えているのだろう。「おもしろいことです」と答えた。間違った答えではなかったと思う。こんなことをしたら面白いかな、こんな表現はおもしろいかな、こんな風になったらおもしろいかな、そういえばあの出来事はおもしろかったな、みたいなことしか考えていないかもしれない。

今朝もスーパーで働いたので、意識的に何を考えているのか気にしてみたけれど予想通りだった。未来のおもしろそうなことを考えることもよくあるが、もっとしょうもないネタツイ未満みたいなことで大半は形成されている。

【キモいRHYMESYER】常にチューチュー 常にチューチュー

とか考えていた。考えていないほうがマシかもしれない。バイト中に考えることの8割くらいは忘れていくので、私が私を楽しませるためのもう一生現れないであろうユーモアがたくさんあるということになる。気持ち悪いけれどこうやってご機嫌を取っているのだとはじめて気付いた。仕事に関する重要なことでない限りメモはとらない。公式のアカウントでこんなツイートをしたら面白いかもな、とかも思うけれど大抵は忘れちゃう。思い出したら投稿するけれど、今までにそんなことが何回もあったとは思えない。ネタツイ的なことは発信することに恥じらいがあるので自らに留めるだけだ。【】が恥ずかしい。投稿できない。

短歌を作ったり、ポエムを考えたり、アイドルソングっぽい歌詞を考えたりもしていたことを思い出した。これって一人っ子特有のやつなのだろうか。自分の中で自分がずっと喋っている。喋り続けている。音が止んだ試しがない。ずっとうるさい。私が喋っていないときは私が歌っている。これが病気だと言うなら流石に逃げ切れない。



1ヶ月で何文字くらい書いてるんだろうと気になったけれど数えるとかができないから書いてるんだよな、とも思う。数えるとかができないからひたすら働いて、困ったりヘラヘラしたりしている。別にそれでいいと思っているから数えていないのだし。このフランクな文章を読んで楽しいと思う人がもしいるのであれば仕事にしたい。もう1本連載がほしいなあ。日常のことを記す機会をコンスタントに作りたいのだけれど。それを喋る場所もほしいし。とりあえずはてなブログを始めたことで、細やかな記憶と感情の記録癖がついてきた。よいこと。

仕事をしなければ、ジムにも行かねば、という焦りのおかげで作業を前倒しにできるようになってきた。駄目な部分をこんな形で改善できるようになるとは思ってもみなかった。最近は少しだらだらすると「何もしていなくて駄目すぎる」と感じる。怠けからは相当脱却できているはず。早起きもしているし。何もしていなくもないという自覚を芽生えさせるのが次の仕事かもしれない。何かしていることを忘れて、新たにやることを増やしているといつか死ぬ。まあいつかは死ぬけれど。意味がありすぎても仕方ないな、適宜意味を殺しながらいこう。

デスクに小さなパンダのぬいぐるみを置いてみた。四つん這いの姿勢でおしりをこちらに向ける。かわいい。