私も私以外もいる

常温のカルピスウォーターの作り方

1.5Lペットボトルのカルピスウォーターを買ってきて、コップに注ぐことなく直接飲む。キャップを閉めてテーブルの上に置いておく。完成。(なお、1.5Lである必要はなく、コップに注いでもいい。1.5Lを常温にするほうが自分のダメさが浮き彫りになって気味良い)

 

締め切りを伸ばしてもらった原稿と、今週締め切りの原稿と、来週締め切りの原稿と、私用で書かなければならない文章が2つある。だから、だからブログを書いている。私が間違っていたことはない。

 

常春さーん。2音目が「こ」の単語の魅力語ろう座談会で「彦根」は当たり前すぎるという理由で暴力を生む。当然のこと。どこにだって最低限のルールがある。弁えなければ進められない。偶然2学期制で育った人だけで構成された「ザ・あきやすみバンド」の出勤担当。見てられないと思うことが増えたときに減るのは見てられると思うことではなく愛のスコールとかじゃないのと教えてくれたクラスメイト。公明党のポスターが貼られている場所を幾つも教えてくれたクラスメイト。こういういなかったクラスメイトを30人集めて作ったなかったクラスにいなかった私を、燭台に立たせる。撫でて撫でて、ずっと撫でてなくなる。

 

初めてコロナに罹ったのでファーストガンダムでもエヴァンゲリオンでも全部見るつもりだったけれど、こたけ正義感の逆転裁判7-11HASAMI groupの歴史の動画しか見られなかった。こたけ正義感の逆転裁判1-6は既に見ていたので。あとは全部寝ていたというか、寝ていたつもりもないから、なかったのだと思う。なかったので当然何も考えてない。こういう期間に考えを発展させるのかと思っていたし、まとまった時間があったら〇〇したいのチャンスだと思っていたけれど、そもそもまとまった時間ではないので違った。まとまった時間は本当に全部が終わらないとない。全部の中には洗濯や戦争や修理なども含まれる。

 

例の歴史の動画はすごく良くて、全然泣いた。私が感受性の冒険団であることはさておき、何がいいのかなと考えると郷愁とか望郷とかの単語が思い浮かぶ。そんなものは別に歴史の動画を見なくてもある程度わかっていたのだけれど。郷愁と入力したときに出力される「異郷のさびしさから故郷に寄せる思い」「ノスタルジー」ああ、そうです、そうですわ。そうだから、ウルセェと思ってしまう。栃木・宇都宮に行ったことない。でも栃木・宇都宮は自分の思い描く「故郷」の像にかなりピッタリで、東京はやっぱりさびしい異郷のキャラにうってつけ。

主人公の親友の眼鏡っ娘は性格がめちゃくちゃいいし、最初にツンツンしていて厳しいプリキュアはのちのちポンコツが露呈する。それくらい「そうだよなぁ」だった。

 

私の話は私のブログですればいいのだからこんなところに書く必要はないけれど、個人情報は私と結びつけるわけにいかないからここに記す。

自分は生まれてからずっと東京の不便しない同じところに住んでいて、まぁもう少ししたら出ていこうとは思っているけれど実家にいる。幼い頃から遊ぶ時は吉祥寺・高円寺・中野・新宿・原宿・渋谷。博物館や美術館に上野に行って、銀座とか日本橋とかも行く。秋葉原に買い物に行くこともある。東京が故郷だなんて嘘みたいだけれど、それ以外に故郷がない。

中学高校の帰りに寄った思い出の場所なんて、吉祥寺パルコと吉祥寺マルイと吉祥寺アトレと井の頭公園。ノーノスタルジア。好き好んで時間を溶かした場所の大抵は後付けのサブカルチャーみたいな街だ。

 

「街」と入る好きな曲がいくつかある。それこそHASAMI groupなら「君の街は」だし、DIALUCKの「あの街まで」、ceroの「街の報せ」、唾奇の「街から街」ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「君の街まで」とかね。

町よりも街の方が馴染みがあるからかもしれない。でも音楽のなかの「あの街」とか「君の街」ってやっぱり吉祥寺とか高円寺とかじゃないと思う。西荻窪でも東中野でもない。もっと暮らしがあったり、物悲しさがあったりする。遠さを感じたり、伽藍とした印象を受けたり、海や山が見えたりする。風の香りがする。

私はそんな「あの街」のデータが、想像でしかない。もしかしたら本当はそんな場所ないのかもしれないし、音楽に乗らないといけない場所なのかもしれない。でも絵みたいな故郷はない。ない郷愁。

MOROHAの『遠郷タワー』を聴くと思う、「長野、ちょうどいい故郷だなー」って。本当に失礼なんだけど。栃木とか長野から東京に来るのはなんだか「上京」って感じがするし、思いを馳せる距離がしっくりくる。

 

私が40歳になっても、60歳になっても、学生時代の思い出の場所は井の頭公園だし中野ブロードウェイだし高円寺pal商店街だし吉祥寺パルコだ。こいつのノスタルジーには無理があるんじゃないかと最近思っていた。限界というか嘘に近い。

 

この物悲しさって栃木なんだなぁ、と歴史の動画をみてぼんやり思ったけれど、栃木を知らない。だから栃木のせいにもしきれなくて、青木龍一郎の書いた記事を何となく読んだ。ある記事に地理のことが書かれていた。上京してから4年間は多摩地方に住んでいたこと。多摩川を歌っている曲の多摩川は稲田堤のあたりのことだということ。

 

すごくスッキリした。東京の中でも物悲しさは味わえる。稲城市に住んでいた同級生の家に中学生の頃行ったことが今でも忘れられない。本当に、本当に何もなかった。自然が豊かとかでもない。本当に何もないのだ。あの悲しさ。思い返すと川崎のあたりで東京都と神奈川県の境をフラフラした日の哀しさとか、綱島のあたりの夕暮れの寂しさとか、やっぱり大きな川沿いはちょっと物悲しい。稲田堤に行きたい。

故郷、異郷問題はもうどうにも解決できない。どうせ今後暮らすのは渋谷区とか目黒区とか、嫌だけど港区とかになってしまうのだから。稲田堤だ。昔知人の美容師のサロンのために行ったことがある。稲田堤。もっとあのあたりを掘ろう。

 

街。街を知りたい。私のイメージの街があるのか、見つけ出すまで街を見て回る。一つ夢というかコツコツ進められる目標ができた。

 

いい加減作業しようと思ったらやばい咳が止まらなくなってしまった。あと引く風邪のような、タチの悪い街に浸りたい。ジブリみたいとは到底言えなくて、映画みたいでもなくて、それなのに心がザワザワする街。ゲフォッゲファッゲフォッ。尺八みたいな咳。

水無月雑記

毎日毎日毎日毎日毎日自分が立てた予定と自分が立てた予定の間で走らされたり食事を諦めさせられたりしている。こんなに焦るくらいならもう少しゆとりのあるスケジュールにするべきだった、と毎回同じように思う。でも、予定をこなしている最中は「多少疲れてでもこれをしてよかった、家でゆったりしていたらこんな感情は湧かなかった」とか思うからいつまでも改善されない。大人になったら何もしないことを認められるようになるのかしら。大人になるのがいつなのかは置いておいて、しばらく無理そうだ。じっとしていると暗鬱になる。死ぬ直前まで走っているのなんて恥ずかしいよ。時間の感覚も掴めないまま死ぬんでしょ。計画性のない人だったねぇと言われて終いよ。70歳とかで歌舞伎町を全力疾走して開演ギリギリにハイジアV-1とかに行くの嫌すぎる。70歳は走らないでほしいし歌舞伎町に行かないでほしいし、ゆったり座れる座席の演芸場とかに行ってほしい。パイプ椅子の劇場はキツいよたぶん。

 

先日も時間があまりにもなかったので急いでいる人のレベルを越す速度で走っていた。そこそこ足が速いほうなので、街中では許されないくらいのスピードを出してしまう。女の法定速度、超過では?と思い、間髪入れずにそんなこと思うなと思う。思って、思うなと思う。これだけで日常が形成されているような気がする。社会人は家で昼間からおもしろAVレビュワーブログなんぞ読んでいる場合ではないと予定を詰め込んだ生活を送っている。これまでも基本的には忙しくしているのが好きだったが、アルバイトを増やしたのに遊びや人と会う予定も増やしているから当然の如くパツパツ。誰に頼まれた訳でもなく1日に4つ予定がある日がザラにある。頭があまり良くないのだろう。なんだかんだこの生活も始まって3ヶ月だが、想像していたよりかは楽しく元気にやれている。

6月中盤から後半にかけては手首に謎の湿疹が出る代わりにカス睡眠カス食事でも健康でいられた。このまま湿疹が全身に出ることで何も食わず寝ることもせず生きられる命になったら便利だけど、多分面白くないし気持ち悪い。気持ち悪いのって面白いから許されているのに。

指令も受けたのでここ数日はたくさん寝た。睡眠時間が2時間でも9時間でも等しく昼間に眠い。原因はわからないけれど単純に無駄なエネルギーを消費しすぎているだけだと思う。そうなると睡眠時間が長いのは損なのではないかという間違った疑問が湧いてくる。お化粧が普段より綺麗にできた気がしたので、睡眠時間が長かったおかげ、ということにする。寝ることのポジティブキャンペーンをしよう。そう思った矢先バイトに寝坊して遅刻したので、やはり寝るのは向いていないと思えてしまう。ないものに責任を擦り付けていて死んだほうがいい。一度睡眠に甘えはじめると身体が死にゆく。頼むから「適度」をわかってほしい。

 

この前、高円寺駅から電車で向かいに座っていた男性。30代で小太り、ダメージジーンズ黒Tシャツちょっと変わった黒のサンダル。大きめのiPhoneをいじっている。ギャルソンのクリアトートバッグには真っ黒の大きなポーチと1冊の本だけが入っていた。真っ黒の表紙に白の明朝体『その問題、経済学で解決できます』の文字。ちょっと。見せる用の本すぎる。色で選んできただろ、という感じがする。だったらいっそのこと見せるための洋書とかの方が振り切っていていい。殺すなら殺しきってくれ。ギャルソンのバッグに入れてトータルコーディネートを完成させる、シックでシンプルなデザインの表示だと思ったのであろう。でも私みたいな面倒な人に「あの人はその問題を経済学で解決しようとしているんだ、もしかしてその人を見ている私たちへのメッセージだろうか、みんなの問題を経済学で解決できることをを伝えるためのクリアバッグだろうか、透明じゃないバッグだったらそのメッセージは伝わらないもんな」とかを思われてしまう。あとそのファッションをしたいなら少し痩せた方がいいぞ思いかけて、そんなこと思うなと思った。セーフセーフ。思って、思うなと思う ※くりかえし

 

朝のアルバイトに新しい人が入ってきた。編集系と仕事とのことだったので、私も少し文章を書く仕事をしています、編集の仕事って大変ですねぇみたいな当たり障りのない話をした。すると近くにいた同僚のおばさんに「え!〇〇さん文字書けるの!」と言われた。この人に私は文字を書けない子だと思っていたのだろうか。日本の教育はそこまで酷くないですよ。どんなこと書いているの、と聞かれたのでなんとなく返したが、かなり上の空だった。私なんてちまちま文章を書くことから枝分かれしているような命なのに、そうは見えていないのかと驚いた。なにもじゃあ文字を書いていそうな空気を纏っているかと言われればそうではないと思うけれど、「書けるの!」と感じるというのは相当ではなかろうか。仮に私が人を殺せるくらいのネイルにバチバチつけまつげで店長にタメ口で喋る人間だったらわかる。でも私はすっぴんメガネ一つで半分寝てる人。あ、半分寝てるから頭が回転しているわけがないと思われているのかも。それなら納得。そうなると朝の私はどれだけアホに見えているんだ。あそこにいる私は空の私なのかな。突然知らない自分にぶつかるのは嬉しい。定期的にぶつかっていきたい。ぶつけられたい。

 

もうひとつのぶつかった話し。

中学の頃の同級生から連絡が来た。男。サッカー部。ムードメーカー。私が学校を辞めてからもちょけたLINEがたまーに来る。私に連絡を寄越せる度胸のある人がそもそもいないので、いつも気が向いた時に返信をしている。好きみたいな内容を送られてきたこともあったが、複数人でふざけているノリだと予測できるので適当にあしらってきた。学校を辞めてそこそこ経ち、向こうも環境が変わって私なんかのことを忘れている時期なのにまた連絡が来た。SNSを見られているらしい。そうか、SNSをしていると忘れられていそうな人に忘れられないのか。知らなかった。例の如く、まったく温度感のわからない付き合いたいが来たので適当にこちらもふざけ返したが、その後ダラダラと返信がくる。

そろそろ無視しようと思ったとき「好きな人できたことある?」と送られてきた。「ありますが」と返したら「憧れとかじゃなくて好きだよ?」と言われた。お前に何がわかるのだと思いながら「馬鹿にされているのだろうか」と返した。すると「違う笑 でも小学校とかでしょ」と。続けて「最後に人を好きになったのはいつ?」と来たので大変困った。たしかに学校に通っていたときはあほぼ人と話していなかったけれど、そのせいで小学校で好きが止まっている人だと思われている。姿形が暗い中学生の記憶で止まっているならまだしも、SNSを通じてリアルタイムで私の今を捉えているのに。何も知らない人から見れば誰かを好いているようには見えないということ。趣味や仕事に没頭している人間という見え方だろうか。その見方の人が大多数なのかな。私は私を知っているし私に近い人も私を知ってしまっているから、パブリックイメージに抱きついて離して抱きついてはいなくなってしまっている。自分のことを考えて、自分のことをみて、他人の目に映った自分を見ている。ナルシストも大概にしてくれ。

 

少し前にテレアポでめちゃくちゃ嫌な客に2連続で当たる日があった。ホルモンバランス的にベースであまり元気のない日だったのに、しっかり傷つく言葉を投げられたのでとてもとても珍しく落ち込んだ。涙も出た。今日は無理だ、と思って塞ぎ込んでいたが、1時間後には取りにくい契約をきちんと獲得。一歩も動くことなく、リフレッシュに何かをすることもなく、ただの時間経過でメンタルを回復させてなんなら強くなっている。己の生命力を再認識する出来事だった。悲しみの渦の中にいるときはそんな気力はないけれど、線上を越したタイミングからはそれが原動力になっているかもしれない。きちんと全員を潰そうという意識がある。

 

つくづく自分は困難や苦悩が好きだなぁと感じる。嫌な客に当たって凹んでいるときもどこか外側の遠くの遠くにいる私はニヤニヤしている。マイナスがあればプラスがあるを信じているからだろうなぁとは何となく分析できていた。悪いことがあった分もっと良いことが起こるなら、悪いことなんてどんとこいという姿勢。でもこの日には新たにもう一つ気づいた。プリキュアだ。プリキュアって大体一度敵に倒されて、傷だらけでボロボロになる。けれど、「私たちは絶対に負けない」「プリキュアは勝つ」とか言ってボロボロから復活して最終的に敵を倒す。このマインドが染み付いているせいで、苦しい出来事が起こると塞ぎ込みながらも「私なら絶対に負けない」という自信に火がついてしまう。結局思った通りに勝てるし。何でもかんでもプリキュアの精神性に強い影響を受けているのは間違いない。

 

ヒーローやヒロインが敵にやられてボロボロになっている姿からSM/リョナに目覚めてしまう子供多数いるらしい。大人になってSM好きな人にキッカケを尋ねて「戦隊モノの~」と答えられた経験あり。これは本当に関係のない話だった。ゲッツ&ターン&フォゲッツ(記憶を消せるダンディ氏)

 

6月終了。今月もカードの限度額問題があったので月末数日は切符で移動していた。アホにもほどがある。新しいカードを申し込んだので来月こそ大丈夫なはず。テレアポの成績が良すぎて1つの商品に関しては時給が1800円ほどになった。ガールズバーで働いているのか。会う人会う人に近況を話して立派な人間に見られてしまうというのが今の唯一の悩み。私は何も立派ではない。1週間だけ悩みあぐねいていたけれど、あれは梅雨みたいなものだったと捉えようか。今はこれといった悩みなし。7月は新しいことも着手したいわねぇ。

仕方ない餞

数日に一回のひと山越えたと思う日で、急ぎの書き物の宿題なんか一つもないのに喫茶店にきた。恐らくひと山越えたというよりは嵐を凌いだとかのほうが正しいのだと思う。死ななかっただけで目の前に山はずっと聳え立っている。足腰が死なない限りは下山しない。登り切ることはあるのだろうか。はやく登頂したいが終わりがあるなんてつまらないような気もする。落ち着きたいと落ち着いていられないが常に共存している。矛盾しているようで抗えない対立な気もする。ああ、どうでもいい。どうでもいいことだ。

 

MOROHAのアルバムをちゃんと聴いてみたら、殆どライブで先に聴いたことのある曲で、本当の本当に初めて聴くのは1曲だけだった。その1曲は大して何も思わない曲だったし、ありがちなやつだなぁという感想で全てだった。ファンとしてあるまじき発言だが、MOROHAの楽曲は一番最初に聴いたときが一番いい。ビンタは一発目が一番興奮できるのと同じ理由。いやビンタは二発目三発目の方がいいだろうというプラカードを持った人々の列。「いや」からはじまるプラカードを作るなと思うハッピーターンのパッケージに印刷されるターン王子。ハッピーの要素を入れろと思う私。みんなで作る安全な社会。

歌詞カードなんか見ないで、ライブで初めて聴くのが一番いい。集中力が高まっているから、音も言葉も自然に入ってくる。それでいて都合のいい音や言葉だけ胸に刺さって勝手に感動したり涙を流したりできる。刺さっているというよりかは落ちてきたガラス片を手に取って自分に刺しているだけなような気もする。己で勝手に気持ちよくなるのが許されてしまう空間だから甘えてしまう。別にダメなことでもないのだけれども。音源になって改めて聴いてみると、恋だとか愛だとかを歌っていて「これに感動できるほどお前は何かを知っているのか、感動できるほどの情報を持ち合わせているのか」とかを考えてしまう。歌詞を受け取るのが向いていない。意味が向いていない。意味を考えるのはやめにするべきだ。ピエロが作ったシフト表の精巧さ。望遠鏡で覗いていると思ったら月が私を覗き込んでいたから、驚き仰け反って地獄に落ちてしまったバイトリーダー。ピエロはバイトリーダーではない。

 

恋人について数行書いたけれど、なんだかよくない気がして全部消した。惚気でもなければ悪口でもなく、未来のことというのが正しいようなことを消した。なんとなく。他人のことを案じても仕方がない。人との関係性は考えたところで何も変わらないから、悩まないに越したことがない。悩む必要がない。元々こんな考えを持っているからアドラー心理学のあの本を読んだときに何も感動がなかった。まぁそうだよね、くらいだった。嫌われる勇気とかの前に他人に嫌われることに対して何も思わない。思っても仕方ない。

 

仕方ないが口癖になってきている。口癖というのは心の中で喋り続けている言葉も含めてなので、発声はあまりしていないかもしれない。でも仕方ないと片付けることに頼りすぎなような気がする。「だからなんだ」と肩を並べる2大おそうじワード。仕方ないという言葉を使うことには良い側面と悪い側面があるから考えても仕方ない。仕方ないのウロボロス。仕方ないの万華鏡。仕方ないの迷宮。やる気に満ち溢れているようで全てに冷め切っているような自分が未だよくわからない。感受性が豊かなのに最終的にはそれらをたかが自分の受け取り方だと突き放す。自分で自分を突き放して、くっつかないようにしている。私が楽しんだり熱中していると外側の私が出てきて、全ては小さな世界の出来事だと知らしめる。わからないわけではない。小さな世界で生きるのが嫌だから内と外に私がいる。内で盛り上がっていると外から横槍を入れてくる。あくまでも、大したことのない、小さな出来事、というようにオチをつける。外側の私を消したら内側の私も私ではなくなってしまうような気がするから、今更これをどうこう変えるのは無理だろうなと思う。内と外を行き来している人をこれからの人生で少しずつ見つけられたら嬉しい。見つけてどうしたいわけでもないけれど。この人も外側に行けるんだなと思って、それでだからなんだと思いたい、くらいだろうか。


0613

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0614

何もやる気が起きないなあと思ったけれど、朝バイトに行って洗濯して今からバイト行って夜ライブに行こうとしていて十分なのかもしれない。でも何もしていないといえば何もしていない。何かをしたい、何かをしなければならない、何もしていないの範囲が広がっている、何をすれば何かをしたことになるのだろうか。

一回欲望を吐き出すことにしよう。

 

カラオケに行きたい、ネイルをしたい、喫茶店に行きたい、本を読みたい、海を見たい、花をみたい、水族館に行きたい、静かな神社に行きたい、大喜利したい、時間を考えたくない、一度全部を忘れたい、もしかして何もしたくない?

 

そう気付いた瞬間辺りは灰になった、風の所為で目がやられた、ようやく目をあけたときにはアルバイトに行っている。つらいとかは思わない。休みたいとかも多分思っていない。そこまで考える脳みそもないのだろうか。

友人が心身をしっかり壊しているようだが、何も助けてあげられることがなさそうで困った。困ったところで何もできない。仕方ない。仕方のない人間。仕方なし。本当にそうですかね。何かをなすためにやってきたのか。愚か。愚か。私に誠実さはあるのか。考えたらまた灰の世界に連れて行かれるよ。全部がなくなったらどうだろう。灰なのは周りじゃなくて自分だけなんじゃないですか。美しい世界。美しい灰。美しいと言えばなんでも美しい。仕方のないこと。

 

湿った夜に君の街まで

しんどいかもしれないと思ったときは大体あまりしんどくないときなのでしんどくないと思うに越したことはない。給料明細というのは最終的に入った額の部分だけ見るに越したことはない。悲しい始まり方だこと。

 

化粧が崩れるのが本当に面倒。メイクをすること自体も正直面倒ではあるのだが、それが崩れてまた直すという行為が面倒すぎる。この時間は何なのだろうと思ってしまう。すっぴんでも可愛い人間だったらよかったがそうでもないので仕方なくメイクをする。バイト先は「捨て」の気持ちを持っているのでメガネすっぴんで行く。バイト先の人と外でメガネなし化粧ありですれ違ったことが何度かあるけれど一度も気づかれたことがない。人が変わる。

 

世の中全体として割と許されるようになってきたので、メイクをしている日はマスクを付けないで外出することも増えてきた。逆にノーメイクの日はマスクをしている。マスクをしなくなって良いことはそりゃあ化粧崩れがマシになることなのだが、代わりに嗅覚が野に放たれる。世界というのは本当に臭い、気持ちが悪くなることが多い。これまでがどれだけ守られていたかがわかる。特に電車は気が狂いそうになることが多々ある。煙草と生乾きが混じった匂いとか、強すぎる香水とか、かなり太っている人の常軌を逸した汗臭さとか、死んでしまう。殺される。マスクをすればある程度は守られるが、化粧は崩れる。鼻がきかなくなる薬とかはないものだろうか。鼻がきくことによるメリットはほとんどない。今の所の対処法は、精神が落ち着き気持ち悪さがあまりないフレグランスを全身のあちこちにつけておいて、異常を感知したときに体のどこかを嗅ぐというもの。まぁ大体手や指だけれども。これ以外に何か方法があればメールください。いいフレグランスを探したいのだけれど、香りはインターネットではどうにもわからないので足を使わなければならない。いい香りを見つけ出すという作業は全てが終わった人のゴールだと思っているので、そんな日は一向に来ない。いい香りをみつけだしたいのに。

opacitygirl@gmail.com

 

食事をしようと思っても何が食べたいのかわからなくて、色々な食べ物を見て疲れて何も食べられない、みたいなことばかりだ。気持ちが少しか暗いから何かをしようと思っても、お笑いを見る気分でもラジオを聴く気分でも音楽を聴く気分でも寝る気分でも甘いものを食べる気分でもなくて、どのSNSを開いても1分も見ていられなくて、呆然とする。そういう時は大体このような文章を書いていると落ち着く。これはもうセラピーの一種、安定剤の類の行為。そううっすらわかった気がしているから時間がなくても言葉の羅列をだらだらと続けることを許してしまっている。

性的欲求も同じことが起きているらしい。最初に今自分にあるのは性欲だと思うところから始まるが、性行為をしたいとは思わないしそもそも肉体的な快楽を求めていないと気づく。特に自らで何かを施す気にもならない。それなら視覚的に性の刺激を得てみようと試みるが心が動かないどころか少し沈んだ気分になる。むしゃくしゃしてまた文章を書くと気分が落ち着く。だったら最初からあれは性欲ではなかったじゃないか、と思うのだがたしかに尻尾は掴んでいたのだ。文筆欲なんてものがあってたまるかと思うが、それ以外の欲求のはけ口が書くことになっているのならどちらにせよ気持ちが悪いし、あれもこれも気持ちが悪い。気持ちが悪いからあっちに行っていてほしい。恋愛リアリティショーに出演してみんなから食事をハブられたり石を投げられたりしたい。僕だけがいない街

 

今日までにやらなければならないことがバッチリあったはずなのに、気圧のせいか昨日も今日も大した気力が湧かず全く進まない。抗うこともできないので諦めるほかないが、ピンチではあるのでとりあえずソルファを再生している。ソルファ、2004年リリースだ。19年前。19年前のことなんか覚えていない。言わずと知れた名盤だけれど、例に洩れずこのアルバムは大好きだ。なんだかんだ聴いてしまう。どの曲が好きとかではなくて全体がいいよなあコレは。ランドセルをまだ背負っている頃に聴いていたのを思い出す。仕事で帰るのが遅くて、夜に恵比寿のあたりを歩きながら再生していた。それと新百合ヶ丘で仕事をしていたときに聴いていた覚えがある、小田急線のなかももちろん。生意気だ。

 

ついこの間思い立ってメモしたやつ。音楽って家族や兄弟の影響がやはり大きいと思っていて、とくに兄弟に関してはダイレクトに伝染すると思っている。だから一人っ子で好きに音楽を享受できていたのはインターネットのおかげ過ぎてありがとうねとしか言い様がない。これもまだまだ一部だし頭から抜けているのもあるだろうから書き始めたらきりがないけれど。なんとなくこの頃にリリースされて好きだったものを思い出していたんだ最近。去年のナナペ吉原さん座長公演でアカシック清竜人が流れていて、ああこれっていうのは世代のやつなのかとはじめて知った。少しずれているような気もするが。誰かと音楽を共有したことがなかった所為で、未だに自分の現在地も向いている向きも、進める距離もよくわかっていない。わからなくても音楽を聴くことはできるので、あまり深く悩んでもいないが、わかったらもう少し楽しいのかなと思うこともある。

バンドをしてみたい。これはずっと思っているが叶うとしてもすごく遠い地点だと予想している。この前会った友達が最近趣味でバンドしてるよ、と言っていて羨ましいと思った。恋人は、バンドは簡単にはじめられて簡単に飽きる、そして簡単にできるけど上手になるのはめちゃくちゃ難しいと言っていた。3人以上でのコミュニケーションになった瞬間に異常が発生してしまう人間なのでしばらくは無理だろうなあ。

 

22時過ぎに久々に大々的な腹破壊(爆裂にお腹を壊すこと)が起こったせいで、体力が無駄に削られている。それと関係なく今日は目の前で車が接触事故を起こすところをみた。事故は起こしたくないし起こされたくないなぁと思った。それ以外には湿度が高いなあくらいしか思わなかった。セブンイレブンのひとくちチーズケーキというものが美味しかった。私はチーズケーキがとても好きで、戦争は好きではなくて、運動中におっぱいが揺れるのも戦争くらい好きではない。

おっぱいといえば数日前から左乳房側部と左腿裏に蕁麻疹や湿疹が出ていて、左側から腐っていくのかと警戒している。おっぱいって必要な場面が少なすぎるのに常に携帯していなければならないのが心底ダルい。降水確率が0%なのに傘を持って出かける人がどこにいるんだ。折りたたみでも日傘でもなく、長い雨傘だ。いらないだろう。雨の日に持てばいいだろう。そういう気持ちでいる。必要とされる機会を増やせばこの不快感は解消されるだろうが、そんな解決は求めていない。湿度が高い。蕁麻疹が痒い。

 

Yogee new wavesのClimax Night とLucky Kilimanjaroのひとりの夜を抜けとYoumentbayのNight Radio。ラジオくらいが友達だったときの夜の音楽。メンヘラカルチャーに走らなかった自分には感謝したい。よくやった。

今日は自分の書いた記事が不特定多数の目に触れるところに公開された、的外れな意見が飛び交うようになって非常に愉快だ。自分の言葉で他人が動かされているのが目に見えてわかると面白い。誰かを感動させたいとか人生に影響を与えたいとかそういったエゴは皆無だしそもそも仕事を通して、他人をどうにかしたいとかはあまり考えていないのだが、鰹節みたいな人たちがふわふわ踊らされているのは見ていたいなと思う。鰹節みたいな人たちを踊らせる軽快なビートの文章を書きたい。言葉というのは音楽で、音楽というのは言葉だと考えてもいいと思っている。いい言葉といい音楽に囲まれていられるかは自分次第かしら。

創意工夫、常に空中

湿度も気温も高くやっていられないと思ったが、鏡を見たらそこそこ可愛かったので大丈夫だった。化粧をし、可愛いと思う服を着ているときなら自分は可愛いと思える。自分が可愛いときは大抵のことはふーんで済むし、気力の基本値が上がっている気がするのでよい。誰のためでもなく、自らを鼓舞する意味で服を買い、化粧をし、どうにか繕う。これは何より健全だと思うがこれもどうせ嘘か。他人からどう見えるかを考えているなかで、他人の代表者を自分にしているだけなのかもしれない。嘘をつくのはいい加減にしてほしい。

鏡を見ようが動画で撮られた姿を見ようが、話した録音を聴こうが、自分が受け取っている自分はどこにもいないのだろう。だからどうにか他人の瞳に映る像を貰っては重ねて、姿形位置を探る。誤差はあれど他人からの意見はどれも否定できない、少しずつ少しずつ歪な生き物ができていく。仕事できるし可愛いし悪魔だし怪物だし病気。多分誰も嘘をついていない。嘘をついているとしたら私だろう。嘘は好きではない。私のことは好きだけれど、どういうことなのだろう。

 

基本的には毎日楽しい。つらいこともあまりないと思う。傷ついてもいない。嫌だったこともない。昨朝の満員電車は嫌だったか。ギチギチなのに救護活動で電車が動かなくなってしまい、ようやく動いて次の駅に着くと許容量を上回る人が乗ってくる。身長があまり高くないので、満員電車に乗ると呼吸がしづらくなる。苦しい。それに鼻が敏感なので苦手な洗剤の匂いや人の匂いがするとゲボ予備軍になる。心は全く繊細ではないのだが、感覚が過敏な節がある。分類するとHSPとかいうやつなのだと思う。何故か心的な繊細さばかりが取り沙汰されて市民権を得ているが、本来は音や匂いや光の過敏さもすべてひっくるめたもののはず。自称HSPの人でくせぇくせぇと嘆いている人を見たことがない。自分は自称でもなんでもないので、ただ光に弱く音に敏感でくせぇくせぇと思っている人間。人が気にならないレベルのものでも気になってしまう。でも忘れる能力の高さでその繊細さを帳消しにしている。最大の攻撃はわすれることかな。悲しいね。

死にたくもないし、やりたいこともあるので全然元気だった。たまに訪れる淋しさや悲しみは、小さな雨雲のようなもので、しばらく待てばどこかへ消える。折りたたみ傘くらいは持っておきたい。

 

昨晩は珍しく早く寝てみることにしたので、今日はだいぶ寝た日の朝だったはずだが、だいぶ寝ていない朝と同じくらいの眠さとパフォーマンスの低さだった。いつも睡眠には騙されている。たくさん寝たら良いことあるよ、みたいに手招きしているくせに、いざ行ってみるとただの会議室くらい無機質。何もないも同然。むしろ外の方がいいわとすら思う。いっぱい寝てもいいことはあまりない。たくさん寝なくてもやっていける身体に仕上げたい、それでピューロランドくらいの楽しさを作って会議室の奴らを見返す。今私は何に怒っている?

 

久しぶりに先生にご飯に連れて行ってもらった。その間他愛もない話しをするわけで、仕事のことが主だがもっと普遍的なことを話す場面もある。「共感」について考えた。共感ってかなり重要だ。人とわかり合う上で必要で、共感力は高いほうがいい。だからといって何でもかんでも頷いてばかりいるべきでもないのだが。お笑いだって共感がベースだと思う。共感とは何より簡単で何より難しい。共感なんて本当はないのではないかと思うときもある。人の気持ちはわからない。わかるものというと自分の気持ち、自分の考えだけだ。それ以外は全てわからないこと。わからないことしかない。私は人の気持ちがわからないのだと言い聞かせながら生きていますと先生に言う。

共感してくれる人が思いもよらぬところに居るということはここ一年くらいで気付いたことで、その人が必ずしも自分と同じ立場や境遇とも限らない。そんな話をしたら「共感の国を作ったらおもしろいですね」と言われた。そうですね、と返したが、自分に共感してくれるような人が大量にいるのは少し嫌かもしれないと思った。

 

週に4,5日はスーパー、2,3日はテレアポ、そこに元の仕事と原稿の仕事をしていて、AI系技術習得という変なアルバイトも日常に加わっている。今日から毎日2時間CGアニメーション生成の勉強をしなければならなくて、時間というものの捻出の方法を考えねばと思いながらこんな文章をタラタラと書いている。今は考えている時間なのだから排除できないぞと座り込みをする私。ブルドーザーで突っ込んでくる私。それを見ている私。止めないのは私なのか車が止まらないのか、うま玉トマ苫小牧。何一つ動いていないか。

やることが沢山あるのは別につらくない。むしろ多い方が動きやすくなるし、元気もいっぱいになる。それぞれ心も体も頭も使っている場所が違うので負担も大きくない。それどころか互いが良いように作用しているような気がする瞬間もある。一生このままいくつもりはさらさらないけれど、これをこなすことに慣れるようにはなりたい。

集中してパソコンとにらめっこしながら3D動画の作り方を学び、数時間後には延々と他人に営業をし、家に帰って文章をしたためる、目覚めて重い荷物を運んで仕分けて商品の品出しをする。小さい社会との接点をあちこちに作っている。少しずつ面白いことがあるから、少しずつ私の形も変わっていっているはず。石みたいな。角がとれているならいいけれど、全てを殺す意志は健在だから丸くなるということでもない。新しい形になりたい。

 

スーパーで働いているときは身体さえ動かしていれば作業ができるので頭ががら空き。だからいつも考え事ができる、とても貴重な時間。無駄な誘惑も情報もない理想の環境だ。それを先生に言ったら「考え事って、何をそんなに考えることがあるんですか」と言われた。考え事しかしていないのに、考え事について考えたことがなかったから驚いてしまった。何を考えているのだろう。「おもしろいことです」と答えた。間違った答えではなかったと思う。こんなことをしたら面白いかな、こんな表現はおもしろいかな、こんな風になったらおもしろいかな、そういえばあの出来事はおもしろかったな、みたいなことしか考えていないかもしれない。

今朝もスーパーで働いたので、意識的に何を考えているのか気にしてみたけれど予想通りだった。未来のおもしろそうなことを考えることもよくあるが、もっとしょうもないネタツイ未満みたいなことで大半は形成されている。

【キモいRHYMESYER】常にチューチュー 常にチューチュー

とか考えていた。考えていないほうがマシかもしれない。バイト中に考えることの8割くらいは忘れていくので、私が私を楽しませるためのもう一生現れないであろうユーモアがたくさんあるということになる。気持ち悪いけれどこうやってご機嫌を取っているのだとはじめて気付いた。仕事に関する重要なことでない限りメモはとらない。公式のアカウントでこんなツイートをしたら面白いかもな、とかも思うけれど大抵は忘れちゃう。思い出したら投稿するけれど、今までにそんなことが何回もあったとは思えない。ネタツイ的なことは発信することに恥じらいがあるので自らに留めるだけだ。【】が恥ずかしい。投稿できない。

短歌を作ったり、ポエムを考えたり、アイドルソングっぽい歌詞を考えたりもしていたことを思い出した。これって一人っ子特有のやつなのだろうか。自分の中で自分がずっと喋っている。喋り続けている。音が止んだ試しがない。ずっとうるさい。私が喋っていないときは私が歌っている。これが病気だと言うなら流石に逃げ切れない。



1ヶ月で何文字くらい書いてるんだろうと気になったけれど数えるとかができないから書いてるんだよな、とも思う。数えるとかができないからひたすら働いて、困ったりヘラヘラしたりしている。別にそれでいいと思っているから数えていないのだし。このフランクな文章を読んで楽しいと思う人がもしいるのであれば仕事にしたい。もう1本連載がほしいなあ。日常のことを記す機会をコンスタントに作りたいのだけれど。それを喋る場所もほしいし。とりあえずはてなブログを始めたことで、細やかな記憶と感情の記録癖がついてきた。よいこと。

仕事をしなければ、ジムにも行かねば、という焦りのおかげで作業を前倒しにできるようになってきた。駄目な部分をこんな形で改善できるようになるとは思ってもみなかった。最近は少しだらだらすると「何もしていなくて駄目すぎる」と感じる。怠けからは相当脱却できているはず。早起きもしているし。何もしていなくもないという自覚を芽生えさせるのが次の仕事かもしれない。何かしていることを忘れて、新たにやることを増やしているといつか死ぬ。まあいつかは死ぬけれど。意味がありすぎても仕方ないな、適宜意味を殺しながらいこう。

デスクに小さなパンダのぬいぐるみを置いてみた。四つん這いの姿勢でおしりをこちらに向ける。かわいい。

白紙の増刊号

5月終了。数字が増えて、時間が経った。楽しい月だった気がする。ついこの間4月が終わったのに、とかそういう仕方のないことを言ってしまうと帰宅時に静かなパトカーが停まっているらしい。だから言えない。働いて、遊んで、出掛けて、見聞きして、いつも通りながら枠に対して詰められた量が多かったような。ちゃおの付録のぎっちり感。漫画の方は白紙だったのかもしれないけれど。

 

紫陽花があちこちから顔を出してきた。昨日noteを開いたら一年前の私も紫陽花を好きだと書いていたし、好きな理由も私と同じだった。どこで見ても等しく綺麗なのに、かなりどこにでもある。種類が多く色も鮮やかで、形も様々で、それなのに全て紫陽花として認識できる。特別な存在。民家に咲いていても申し訳なさはありながらバシバシ写真に撮ってしまう。東京のそこそこ治安の良い住宅街に育ったことの良いところは、花が咲いているのをあちこちで見られるところ。ありがたい。駅から家に帰るまでの間にいくつも紫陽花がある。花は心に豊かさを与えてくれると信じている。お花になりたいね。

 

5月末は何が重なったのかわからないが、月末に通信制限とカードの差し止めをダブルで食らってしまって面倒だった。先月より3ギガぐらい多かったらしく、繰り越しされないことを初めて知る。例えば東京大阪間でずっとPornhubを見ていたならわかるけれど、私はPornhubを開かないし大阪にも行っていない。原因は誰も知らない。

カードのほうはだいぶ前から限度額が低すぎて困っている。最初に適当に設定したのが間違いだった。買い物以外に交通費や医療費もカードで払うようになってしまったのでそこそこの頻度で限度額に達している。引き上げてほしいと電話をしたこともあるのだが、自動でカード会社が更新するらしくそのタイミングは明かしていないとのこと。何のためなんだ。サプライズだとしたら全然ワクワクしない。センスがない。大自然のネタとか見ておいてほしい。

 

昨日はすこぶる調子が悪かった。珍しくしんどくてぽろぽろ泣いていて思い返すと笑える。テレアポついてから1時間半くらいは架電しながら泣いていた。泣いている女性からの営業電話はエロいなぁと途中から思うようになったあたりから集中できた。気圧とホルモンバランスで数日調子が悪かったけれど、原因がわかっているから特に気にならない。電話をして2時間半を過ぎた頃からは悲しみが言葉に溶けて、それも乾いた。

テレアポをしていると本当に色々な人と話ができて面白い。昨日の18時48分にかけた家庭は60代くらいの女性が対応してくれた。19時過ぎにはご主人が帰るので、また電話してとのこと。在宅している確率が高くなるように少し時間を空けて、19時半過ぎにあらためてかける。つながると、先ほどの奥様の声がする。「ごめんね〜、帰ってご飯食べてビール飲んだら寝ちゃった!疲れてたみたい〜。また連絡ちょうだいね」と言ってきた。早すぎる。こちらが案内している回線よりあなたの方が早いことでしょう。45分前にかけた時には家にいなかった人が、帰宅してご飯食べてお酒を飲んで寝るまで終わっている経験がなかったので面白かった。あと奥様が優しくて嬉しい。

お客さんによっては繰り返し電話で話して契約にこぎつけることもある。現状の相談に乗ったり、相手の疑問点を解決できるように説明したり、できるだけ力になれるように話をしている。4月末に初めて喋ったおじいさん。一人暮らしの70代くらいの元気な人。インターネットにとにかく疎く、Wi-Fiが何かとかもよくわかっていなかった。今利用している会社の料金を確認するからまた連絡して、というから週に1.2回連絡していたのだが、その度に「まだわからない!」「何も進展してない!」「また適当に連絡ちょうだい」と言う。憎めない言い方なので繰り返し連絡していた。5月後半に連絡した時に改めて案内を手厚くしたら、契約してくれそうになったが、詳しい人に聞くとか言ってまた先に延ばされた。別にいいのだけれど。それから1週間後に改めて連絡、翌週も、数日空けても、全然出ない。今まで在宅していた時間帯を狙っているのに全然出ない。忙しいなり、こっちの電話が嫌になったりなら何も問題はないのだが、病気だったり死んだりしていたら嫌だなぁとぼんやり考える。名前も知らない遠くのおじいさんでも、1ヶ月も喋ると少し情が湧く。向こうは向こうで自分への喋り方が少しずつフランクになっていた。

不思議な仕事だと思う。姿形を知らないのに怒られたり信じてもらえたりする。カタチに疲弊している節があるので、そういう意味ではカタチを気にしないでいい大事な時間なのかもしれない。疲れるけど。あと行く前が気怠い。行けば割とあっという間。50人に1人くらい、電話の切り際に「ご苦労さま」と言ってくれる人がいてかなり救われる。自分も今後営業電話がかかってきたら絶対そう返したい。些細な言葉で人に幸せを齎したいよ。

 

数年前noteを毎日読んでいたのは、面白いと思っていた人が毎日投稿していたから。その人が毎日投稿しなくなったのが先なのか、自分が毎日見なくなったのが先だったのかよく覚えていない、何せ見なくなったことの記録は残っていない。あるときから自分の投稿用のアカウントを分けるようになり、閲覧用のアカウントはログアウトしっぱなしになった。Twitterで見かけた記事はもちろん読むが、フォローしている人がどんな発信をしているのかはもう数年確認できずにいる。

少し前に珍しくnoteアプリから通知がきた。5月31日までに投稿をすると2ヶ月連続記録が作れますと書かれていた。だからなんだ、と思ったが、そろそろはてなブログと原稿以外の丁寧な文章を書きたいと思っていたので気に留めていた。

滑り込みも滑り込みの31日。仕事の小さな山を超えた小一区切りのタイミングだったので書くことにした。ここ数日は気圧とホルモンバランスのせいなのかずっと本調子ではない。ぼんやりしていると眠くなるし気合いを入れないと頭が働かない。昨日も例外なく、noteを書こうにも面白いと思うものがぽこぽこ出る状況ではなかった。ただ、このかなりスカスカの頭で書くのは珍しくてむしろ今までよりも良かった気がする。少し前の記事を開くと、明らかにビチャビチャしている。どうにかじっと堪えようとしているのだろうが、既に溢れそうな器を持つ手が震えているものだから、みるみる零れてしまって気付けば辺り一面水浸し。綺麗に撒いたわけでもなく、零した跡、シミ、という感じ。それが自分の本来の姿なのだろうけれど。最新のものはどこかカラッとしていると思った。主観中の主観で怖いか、主観を綴ったものに対する主観。結局自分のことが好きなんですね、という結論にしか至らない。気持ちの悪い人。

最近は仕事のものでなければ自分の文を読むことができるようになった。書いた記憶が残っていないから、この人の気持ちわかるなぁ、共感できるなぁと感じる。でも途中からは、「まぁそうだよな」に変わってやはり読む気が失せる。自らの書いたものを読んで楽しめるようになったら本物だと思うのでもう少し頑張ってみる。

 

未だにどうやってギターを弾いたらいいのかよくわからない。あんなにピアノもエレクトーンもやっていたはずなのに、そもそもコードをよくわかっていない。偶然備わった音感とUフレットに教えてもらってできるようになった手の形を不快にならないように組み合わせる、が今発揮できる最大の力。もっとお洒落な崩し方とかができるようになりたいのだがやり方がわからない。わからないなぁと思っているのに慣れたのでわかろうともしていないし、わかりたいとも思えていない。わかればもっと楽しいのかしら、わからないけど今も楽しい。昼間に家にいる日はこれから積極的に触る方向でいこうとこの間決めた。触れ合いが大事。ちょこちょこ形に残して投稿していくことにしたから、溜まったら誰かに聴いてもらおう。

 

今月は流石に新しいことを始めたい。そのためには動かなくてはならなくて、そのためには。何かを壊すとかか。あと会おうと言ってる人と会う予定を立てる。立てなければならない。

昨日友人と通話している時に「お前は部屋が片付けられなくて、物を無くして、多動で、遅刻とかもして、普通にアレ」みたいなことを言われて、そうだったかもなぁと思い出した。スケジュールを詰めることによってそれを感じさせないようにしているのに。やることを増やしまくると目の前のことを一つ一つ終わらせざるを得ないので、アレな部分がだいぶ薄れていく実感がある。よくやってるよ私は。よくやってるはず。あと多動に関しては無理。刺激もなく家に座って過ごすくらいなら槍で突き殺された方が幾分もいい。

こんなに遊んでお笑いを見てヘラヘラ暮らしている高卒(通信)なのに、4月も5月も収入の合計は院卒よりちょっと多いかも!!くらいになっているので、このままふざけんな精神を貫いてとりあえず2023年は駆け抜けたい。別にいつだって死ねと思っている。でかいスポーツカーを乗り回し、噴水のある家に住む。

溷濁の生活/綺麗は汚い

月が綺麗だった。その前の日も月が綺麗だった。月が見えて汚いと思ったことは一度もない。見えないか綺麗か、の2択なのが月だと思っている。でもそこに辿り着くまでに見るか見ないかの2択もある。何もかも全て忘れてしまっても首を少し上に傾けると月が見えることだけは忘れたくない。それさえ覚えていれば、綺麗だと思えるはずだから。これは綺麗事ではなくて戯言。夢言。

ここ数日は仕事が忙しくないおかげでたくさん歩けていて幸せ。幾度となく歩いた恵比寿と渋谷の間の道を久々に夜ひとりで歩いた。この辺りに用ができてから10年近く経とうとしている。本当にしょっちゅう来ていたところなのに、めっきり来なくなってしまった。一度も入ることのなかった店が潰れ、偽物の昭和みたいな飲食店が数軒できている。最近は偽物の昭和みたいな店ばかりあちこちにできている気がする。繁華街には偽物の東京みたいな店が多い。新規で偽物を作っていて、建てている人も働いている人も空虚感に苛まれていないだろうか。偽物だと思っているのが私だけだったらきっと偽物なのは私だけれど、私は私を本物だと思っているわけでこのお話はおしまい。
恵比寿と渋谷のちょうど中間の、山手線線路を越えるための歩道橋。傾斜がキツく古びているが、電車がよく見えてなかなかいい景色を眺められる。大していい思い出はないがよくここを通っていた。老朽化によって取り壊されるらしい。それで新しくなるとのこと。私なんかより思い入れがある人はたくさんいるだろうから悲しむ権利もないだろうけれど、やはり寂しさは感じてしまう。記憶から薄れていってしまうだろうなと思うと、寂しい。新しい歩道橋ができた日には、綺麗さっぱり上書きされてしまうことだろう。それで寂しいなんて気持ちも忘れるのだけれど。

渋谷駅を目前にすると、新しい建物がどんどん目に入ってくる。再開発される前の、線路沿いの雑貨屋や服屋、ドラッグストアの景色は既に色褪せて薄くなってきている。歩行者用通路が工事が進むたびにあちらこちらへ移動していたことで、記憶がより混沌としている。ようやくまた新たな建物が完成しそう。開発前のあの記憶はもう8年くらい前だ。写真にでも撮っておけばよかったのに。工事途中の段階で線路沿いにアサガオが咲いていたのを覚えている。たしか落ち込みながら歩いていた暑い日に咲いていた。あの道ももうなくなってしまった。アサガオもなくなったのだろうな。それでも寂しいと言う筋合いはない。私が育てていないアサガオだし。
東急が壊されて新しいビルになって、スクランブルスクエアも建って、恵比寿方面の線路沿いの建物もできそうで。そんなに建てて一体何になるの。そんなにがんばらなくていいよ。大きく見えてしまう錯覚だといいけどな。実際はどうせ、でかい段ボールにUSB1つ入っているだけのAmazonの梱包みたいなことなんでしょう。ビルが大きくて中身は何もない。お台場。スカスカ。意味なんかなくたっていいんだよ。無理しないでと言いたいの。いつか限界が来るはずだし。

 

家の近所に頭の悪い高校がある。ヤンキー校というよりはあまり学校が得意じゃなさそうなタイプの子が多そうな。そこの制服を着ている人とすれ違うといつも胃が痛くなる。パッとしない男性の高校生が複数人でわちゃわちゃしているのも、どうにか取り繕っている女性がいるのも胃が痛い。最近はどの角度から見ても地味で暗い男と女のカップルが通学しているところをよく見かける。前髪が重くて制服の着こなしもダサくて、決してよいと言えるスタイルではなくて、2人でイチャイチャしている。男が女の頭をぽんぽんしたりしている。胃が痛い。この胃の痛みはなんだろうと考えた時に、学生アレルギーと童貞アレルギーとダサアレルギーと周りの見えていないお花畑さへの羞恥は当たり前として、未来への苦しみだと感じた。今は2人の世界でも、これから先このまま生きていくのは不可能と言っていいくらい難しい。いざ社会に出て自分の力で生きていくとなったとき、今見えている世界と比べ物にならない広さを感じると思う。周りを見た瞬間に、いかに自分が何も気を使ってこなかったかに気づくし、過去を顧みて嫌になると思う。それでのちに黒歴史とかっていうんだよ。黒歴史なんてこの世になくていいのに。歴史は歴史なのに。黒くしているのは過去の自分ではなくて現時点での自分でしょう。嫌ね。
なんてお節介すぎるだろ今が幸せなんだからそれでいいだろうと、自分で自分の太ももをぶん殴って忘れる。でもここに書いている時点で忘れられてはいない。周りが見えていない若者を見るのは心苦しい。いつか社会を見る羽目になるのだとわかっているから苦しい。自分にできることは何もない。

学生アレルギーはいつになったら治るのだろう。学生を見ると心が陰る。嫌なことを思い出すわけではないし、そもそも自分はいじめを受けていた経験もない(はず)。コンプレックスもない。高校生だけでなく、中学生を見ても小学生を見ても陰る。ちっちゃい子供はだいすき。学生の頃の社会の狭さが苦しい。社会はこれじゃないとわかりながら狭い場所で暮らすのが苦痛で仕方なかった。学生は狭い社会の生き物だからきっと見ると苦しくなってしまうのだと思う。はしゃいでいるグループとかダメだ。ダメだ。私が悪いのか。私が悪いよな。少数派だし。学校っていうのは多数決の場所だから。連帯責任とかですよね。了解です。

私は本当に最悪の学生だった。これは黒歴史ではなく私の意見でもなく事実で、だ。何の意味があるのだろうと常に思いながら課題をこなしていた。時間がないけど提出しなければならないから、答えを写して、どうせ合っているのに丸をつける。あまりにも正解だと逆に指摘されるから適当に間違える。赤ペンでチェックして正しい答えを書く。頭は使っていない。手と時間だけを使っている。それに意味がないということをわかっていたから辛かった。でもとにかく余裕がなかったので仕方なかった。真っ向から取り組みたいとも思ったが、その時間と元気はなかった。時間がある時にまとめてやれればいいのに、提出しないで放っておくと呼び出されてまた長々と時間を食われる。説教をする人だって私がどうなろうがどうでもいいだろうに。この人だって内心長々喋りたくないのだろうなぁとか思って、目の前の人の言葉が全く入ってこない。
全校集会で生徒指導係の先生が長々と喋っている。生徒の一部はうとうとしている。首を下に向けている者も多い。体育館を見渡す。先生も眠そうにしている。半分寝ている先生もいる。真剣に聞いている人は1人もいない。お金をもらっている勤務中の人が聞いていない話をお金をもらっていない若者が聞くわけないだろうと思っていた。腹が立つので真剣に聞いて、メモを取ることもあった。誰に見てもらうわけでも褒められるわけでもなかったけれど、自分にできる抗いのなかの抗いだったのだと思う。

とにかく提出物の多い学校だった。不必要な記録をたくさんつけさせられた。夏休みのしおりとか、毎日何の課題を何時間やったか書かされるやつとか。一番厄介だったのが数学。数学の問題集を解くのにチェックシートがあり、大問ひとつずつに感想を書く欄があった。いつ解いたか、どこを間違えたか、今後何を気をつけるか、などを一つずつ書かなければならない。答えを写しただけでは終わらず、これを一つ一つやるのにとにかく時間がかかる。毎日通学して7時間授業を受けて、夜や休日に仕事に行って、最後の方は原稿の仕事もしていた。数学が好きではなかった。解いてもいない数学の問題の感想を書くなんて苦痛以外での何物でもなく、それでもそれを書かないと提出していない扱いにされる。ただでさえ授業を休んでいるので、最低限提出分を出さないと単位をもらえない。単位をもらえないとそれまでに割いた時間全てが無駄になる。だから仕方なく、提出日の夜中から朝方にかけてずっとチェックシートを記入していた。こんな手間のかかることは、内職だったらお金が発生するだろうに、アルバイトだったら賃金がもらえるのに、と思っていた。でもその頃はアルバイトはしていなかったから、働くってこんな簡単なことじゃないか、と自分を慰めていた。
アルバイトを幾つかした私はあの頃の自分に言いたい。アルバイトは数学のチェックシート記入よりもラクで楽しくて、それでいてお金がもらえる。だからやっぱり学校はおかしい。
原稿料がもらえる文章を書き終えた後に、現代文の課題として出されているテーマを設けられた作文を書く。さっきの文章は好きなことを書いてお金がもらえたのに、好きでもないことを同じくらいの文字数で書いてお金がもらえないのは意味がわからないと思っていた。お金ベースで考えているクソガキだが、間違っているとも言えない。労働力を使っている以上、絶対に見返りが必要で、現代文のその課題では何の経験値も得られなかった上に時間を使った。これらは一部に過ぎないけれど、教師が嘘で塗り固めた小さな学校という社会で生きるのはとにかく向いていなかった。そのせいで、元々好きだった勉強もしなくなってしまった。今やりたいことが落ち着いて、気持ちに余裕もできたらきっと私は勉強をすると思う。誰にも何にも縛られずに勉強をしたい。今の所は全く勉強したくない。

可愛い女の子と遊んだ。私は国レベルで可愛い女の子の知り合いが何人もいるのでかなり無敵。少しばかり嫌なことがあっても、可愛い友達がいるからなぁと思える。可愛い子は性格が悪いと言っている人は、本物の可愛い子に出会えていない可哀想な人。世の中には可愛くて面白い良い子も全然いる。すごい。可愛い女の子は私に誕生日だったからとプレゼントをくれた。可愛い女の子がくれたのは、可愛い女の子が選んだ可愛い靴下と可愛いイヤリング。こちらこそ生まれてきてくれてありがとう、だ。彼女とはそこそこ趣味が合うので、お互いに最近オススメの街や店、喫茶店のプレゼン合戦をした。それでお互いから聞いた情報を携帯にメモする。喫茶店に行った記録をつけているInstagramをしているよ、と話したら彼女の閲覧用アカウントでフォローしてくれた。非公開アカウントだったけれどこちらもフォローリクエストを送ったら、フォローを通してくれた。投稿を見て、アカウントをよく見たらフォロワーが1となっていた。誰にも見せていなかったアカウントを私に教えてくれたのはもう恋というか何というか。結婚したい。こういう可愛い女の子が家にいたら週160時間くらい働けると思う。世の中の生産性を上げるためには可愛い女の子が必要だが、やはり圧倒的に数が足りていない。不便な世界。これを何回聴いたかわからない。

https://on.soundcloud.com/g3jUhc9pkrnvCGsh7


野球観戦に連れて行ってもらった。野球に全く興味がなかった私が急成長しどうにかWBCも見て、ついに球場で野球をみることに。相当詳しい人に連れて行ってもらったので、逐一疑問点を投げかけて解消しながら見られてとても楽しかった。何回か集中力が切れてしまい、スマホ見ている間にヒットしていることもあったけれどおもしろかった。球場の肉うどんは美味しすぎて、野球も見られる肉うどん屋さんなんだなぁと思う。阪神対ヤクルトの神宮球場だったが連勝していた効果で阪神ファンのほうが多く、ヤクルトがアウェイになっている変な状態だった。阪神ファンの中にちゃんと熱量ある輩みたいなのがいてよかった。後ろに阪神ファンの仕事終わりスーツ関西弁おじさん4人組がいて,その人たちの話にずっと耳を傾けていた。AIでもベタすぎるか、と避けるくらいには中央値の関西のおっさんの会話で最高。フランクフルト買ってきて「理想のサイズやな!」「何がや!」とか言ってた。
観戦者にTシャツをプレゼントする時間には「あれ何配っとるんや」「パンツちゃうか」「つば九郎の女の子のやつやろ」「ちょっと走って取ってくるわ」とか言ってた。
もう試合が終わるぞ、という局面で「今日は長くなりそうやなぁ〜」とか言ってた。
あと1人のおじさんが全員分の17アイス買って配ってた。バニラでカラフルなチョコスプレーが入っている一番可愛いやつ買ってた。みんなで食べていた。私の楽園は野球場なのかもしれない。パライソ。通おうかな。野球のチケットってtigetで出してるのかしら。選手への取り置きか。

ここまで、恋人との待ち合わせ前に喫茶店でへこへこ書いた。工夫なしで書けば短時間で大量に書けるけれど、「あいうえおかきくけこ」と書いているくらいには何でもない。頭をあまり使わないで書いている。何もしていないに等しい。何もしていない私を許してください。
仕事終わりに赤坂で合流して私の家の方まで車で向かったが、死ぬほど渋滞していたせいで着いた頃には20時だった。途中2本おすすめのアニメを見せられた。1本目は青春すぎて途中途中苦虫噛み潰しフェイスになったが、2本目はSFで面白かった。相変わらず会話の内容は思い出せないくらいのこと。私の住んでいる土地のイタリアンで食事をする。例の如く2人でしこたま食う。遠出をしたいねと予定を擦り合わせようとするが悉く空いている日が合わない。カレンダーを見て「〇日は?」「無理だ」の繰り返し。向こうが忙しいのはもちろんのこと、私も私で肝心な時に限って予定が入っている。最後に遠出をしてから3ヶ月くらい経ちそう。会う頻度はそこまで低くはないけれど、いつも数時間向こうの家に滞在するくらい。〇〇行きたいね、〇〇したいね、が溜まっていつのまにか引いているような気がした。それで気づいたのだが、どうやら私は寂しいらしい。しばらく先まで予定が合わないのを目で確認したことで急に押し寄せてきた。寂しいなんて思ったことないけれど、寂しいを感じないような生き方をしていただけなのかも。会わないと少しずつ忘れていくとずっと思っていたが違うかもしれない。意識の外で忘れようとして忘れている。
完全に自分に騙されていた。自動操縦は恐ろしい。無意識に悲しみや寂しさや辛さを回避する記憶の取捨選択をして私の精神衛生は保たれている。そうやって弱さを排除しながら人らしさや優しさを失っているのだとわかった。これに気づいてしまったのが悲しかった。気づかないことも含めて強さなのに。

なんてことを書いたが寝て起きたらどうってことなかった。文字で読み返しても特に悲しくない。やっぱりまっすぐ忘れている部分が大きい。考えすぎ。自分の頭の弱さをなめるんじゃない。

好きな作家が毎日ブログに日記をあげるようになったので読んでいる。作品に反して日記はシンプルで地味だ。淡白なのに影響を受けて後半を書いた。たまにはいいけれど、もう少しだけふざけないと面白くないか。今抱えている仕事を終わらせたら久々にnoteを書きたい。面白いことが何なのか忘れてしまっているのではないか。頼まれている記事、連載2本、表向きのブログを来週までに全て終わらせるにはどうしようか。音楽を作りたい。早くDTMも会得して新たな試みを始めたいのに。眠い。寝ているのに。削ぎ落として残る欲求は書きたい歌いたい笑いたいかもしれない。眠いは欲求ではなくて強制シャットダウン。寝たいと思ったことはない。