20230420 記録

暑い。昨日も今日もヒートテックを着ていない。私は365日のうち体感だと320日くらいはヒートテックを着ている。その私が暑いというのだからこれはもう真夏日ということにします。と冗談で書いたら本当に今日福島市で30℃を記録し真夏日になってしまったそう。恨むのは温暖化か国か政治家か恨む自分かカピバラタピオカか。自撮り千鳥って炙りカルビみたいでギリ早口言葉になるなと思ったのが今日の収穫でしょうか。

気温の上昇に伴って、自意識の機種変を行う。冬はモノトーン/モードを基本としているけれど、夏は色味が強くて派手で目立つ服装をすることが多い。だから、気持ちがついていくように少しずつ目立つ格好で外に出ることをならしていく。今日はインナーとボトムスをエグい色柄にして上着と靴は黒にするという、お手本のような慣らしコーディネートで過ごした。プールに苦手な子がまず最初に水に顔をつける練習をするやつ。それとこれとは別なんだよ馬鹿なのかよと思っていた。水に顔をつけるのと泳げないのは全然違う。溺れ死んでやろうかと思いながらプールの授業を嫌々受けていたことを思い出す。普通に迷惑だから溺れ死ななくてよかった。

 

先週アースデイ東京という地球環境を考えるためのイベントに行った。半宗教みたいな団体が複数あってただ怖い思いをして帰ってきた。雨で寒かったし。リーガルリリーをうっすらと聴けたのは嬉しかった。仕事中に「リッケンバッカー」が聴ける贅沢さとすぐそこなのにステージを見られない勿体なさでめちゃくちゃ仕事を頑張れた。キモメカニズム。

「気」を送ってもらえるブースや宇宙の根源パワーを注入してくれるブースがあった。私も幾らか注いでもらえばよかっただろうか。人から注がれた宇宙パワーが自分の身体では受け付けない型のパワーだったら悲しい。輸血とかドナーとかの単語が思い浮かんだが、宇宙パワーは人間くらいなら誰にでも適用するのかもしれない。それもこれも注入されていない側の人間の戯れ言に過ぎない。された側になる勇気もないくせに。 

 

街中のあちこちが選挙事務所になっている。あれって期間限定で場所を借りるということよね。少し前まで営業していた本格的な釜もあるおしゃれなピザ屋さんが閉店して、昨日通りがかったら選挙事務所になっていた。何も悲しいことはないのに少し悲しいのはなぜだろう。何かの跡地に争いが入ってくるからだろうか。哀愁がある。看板とかポスターの原色が景観をぶち壊していて儚さのかけらも感じられないところが不思議と哀愁を帯びさせている。

調べてみたら、選挙事務所用の場所を借りるのは難しいらしい。テナント募集や貸店舗の張り紙が張られている場所でも、選挙事務所の用途はお断りということがあるらしい。それはつまり、街中のあらゆる選挙事務所はその難関を通り抜けた上で存在しているというわけだ。急に尊(たっと)い場所な気がしてくる。こういうことを積み上げることで世の中のすべてを価値のあるものと認識して大切に生きられるのではないかと常日頃思う。まぁ、どう抗っても下に見てしまうものだってありますが。

 

尊(とうと)いが濫用されたことで、本当に価値が高かったり貴重だったり大切にすべきものに「とうとい」と言いづらくなってしまった。「尊い」自体が尊くないという惨事。幸い「たっとい」は生き残っているのでこれを利用したいのだが、漢字は同じなのであまり意味がない。ひらがなで書くなら書かない方が良い気すらする。

 

いつまでたっても表現にぷりぷりしていて、他に怒りがない幸せで脳天気な人であることが浮き彫りになる。表現警備員の最近気になる表現は「オナニー」です。友人がツイートに用いていたので悪いように言うのも心が痛むが、この表現に対する不満は片腕を切り落としたときの血くらい出てくる。

ここで指し示すオナニーは「自身の快楽を優先した行動」を表して使われているオナニーです。「オナニーみたいな創作活動」「オナニーみてぇな歌歌いやがって」の意味です。

 

まず第一に「過激な単語使ったったで」感が否めない。わざわざ、という感じが出てしまっていることが多くて違和感を覚える。単語のパワーとしてはセックスよりも強いと思うので、確かにパンチのある表現になっているようには見える。けれど実際優れている表現かと言えば微妙だと思う。カラフルなカップケーキ。クリームがカラフルで、外見がかわいい。ホワイトチョコレートで作られた絵柄や文字のプレートが刺さっているものもある。写真に撮るとそのかわいさは倍増。さて、食ったらどうであろう。おいしくない。クリームも色に反して味がないしただの甘い脂肪分という印象。カップケーキ部はぼそぼそしていて水分を奪われるし、甘いけれどそこまでのおいしさは感じない。これだ。表現のオナニーはカラフルなカップケーキ。

 

作り手も受け取り手も双方に快楽を得られる「セックスみたいな創作」もあっていいし、むしろそれがベターなはずなのに、その表現を聞かないのは未婚率とかと関係あるでしょうか。それとも、創作物は基本すべてセックスという前提の上で例外を「オナニーみたいな」としているのでしょうか。創作物(セックス)が当たり前なら私の勉強不足。今後の反省にもつながるので答えが知りたい。

 

ここまで文句を言ったのなら、きちんと代替案を出さなければならない。否定しかできない害悪爺の人たちとは違う。あれになったら何もかも終わりだ。

自身の快楽を優先した行動という条件から考えるのであれば、「地下アイドルの一生推して」「セフレ探しのTinder」「絶対儲かると聞いて乗っかった投資話」とかであろうか。

 

「地下アイドルの一生推してみたいな歌歌うな」「セフレ探しのTinderみたいな創作物」「絶対儲かると聞いて乗っかった投資話みたいな関係」

 

綻びは生じてきているが、「オナニーみたいな」よりはマシだと思う。一度「オナニーみたいな」を使い始めてしまうとそればかりになってしまう。恐ろしや。常習性がある表現。危ない。辞められる内にみんな辞めてほしい。それかちゃんとそれ以外のときにセックスみたいな、と言ってほしい。そうでないと混乱してしまう。

 

粗悪品の情熱ふつおたみたいだなと思ったら急に冷めてきた。思えばこのブログも誰かのためではなく自分のために書いているもの。言うならば...自慰ログ?(史上最低)